鶴見俊輔
小田実の葬儀が終わって霊柩車が式場を出て行くとき、「バンザイ」という声がきこえた。
ききちがいかと思った。後に、葬儀の録画を見た。やはり、その声は録音されていた。
小田実がこのように生きたことへの感謝と、私には思えた。
もし小田実に会わなかったら、私の人生は貧しい。
U.S.A.に対して反対する声を私は、挙げたが、それは、もっと貧しいものになっていただろう。
ジンとフェザーストーンの非暴力直接行動を知らないで過ぎただろう。彼ら二人とともに、日本縦断ティーチ・インに加わることも、なかっただろう。ベトナム人民とともに、ベトナムのU.S.A.に対する勝利を祝うことも、できなかっただろう。
おそらく私は、U.S.A.に対してひとりで反対の意志を示しつづけただろう。しかし、仲間とともに、活動することはなかったと思う。
小田実との出逢いは偶然である。
「東京をよくする会」という名の集まりがあって、そこに私は定見もなく、ふらふらと出席した。そこで小田実に紹介された。
それから何回か、会った。
それよりも重大なのは、私が1939年にハーヴァード大学の1年生だったころ、英語(イングリッシュ。これは入学試験の英語で優等で合格していないすべての新入生の必修課目だった)で、助手たちがすでにトマス・ウルフを話題にしていたことだ。
ウルフの原稿はハーヴァード大学に寄贈され、日本でおそらく最初のウルフ研究者、細入藤太郎(立教大学教授)は、その草稿を読んでいた。1枚の紙の冒頭に時刻が記され、その1枚の終わりに、書き終えた時刻が書いてあり、猛烈な速度で走るように書いているということだった。
そのころ細入さんは、都留重人と共同炊事をして暮らしていたので、何度か会う中で、今の話をきいた。
その時のハーヴァード大学英文科の流行に巻きこまれて、私はウルフの長編小説『天使よ故郷を見よ』、『汝再び故郷に帰れず』の2冊を読んだ。
だが、ウルフのスタイルにめざめたのは、それから10年以上後で、彼の自伝的エッセイ『一個の石、一枚の葉、一枚の扉』を読んだときだ。さらに後、小田実の『何でも見てやろう』を読んだときに、このスタイルを思いだし、二人は同種の直感をもつ作家だったのではないかと感じた。
今から思うと、私のウルフ体験が小田実に導いたという気がする。
早書きのウルフが編集者の助言を必要としたように、早書きの小田実も、坂本一亀というすぐれた編集者を得て、もの書きとして、はなばなしい出発をした。
ここにもうひとつの偶然が働いた。
東京の文藝春秋画廊で、富士正晴の画の展覧会があった。桑原武夫がその道をひらいて、貝塚茂樹と私を発起人にした。3者の中で私はどう見ても不釣り合いな小者で、その埋め合わせに、会期の1週間、連日画廊に出向き、来場者に挨拶することにした。ここにもうひとり、戦中からの富士正晴の友人の大洞正典が、ちょうど子ども二人を大学にやるところで、富士の作品を買うゆとりがないので、毎日、夫妻で受付に坐ると申し出た。大洞は私の初期の本『哲学論』を出版した人である。そこに、高畠通敏から電話がかかってきた。
私は毎日、文藝春秋画廊受付にすわっているから、そこで会うことにした。高畠の用件は、大国U.S.A.が海を越えて小国北ベトナムを爆撃するのはひどいことだから、これに日本国が協力するのに反対するという、その1点で結びつく市民運動を起こそうというものだった。
高畠は1960年に新安保条約に反対する市民運動「声なき声の会」を、小林トミを代表としておこし、その事務局長をつとめてきた。
私は彼の提案に賛成した。新しく1点にしぼる運動を起こすについて、新しい代表を推すと言い、小田実の名をあげた。これまでの市民運動の参加者の中で、大運動の下部組織でないグループ(「声なき声の会」をふくめて)に来てもらって、この提案への賛成を得てから、西宮にいる小田実に提案を伝えた。小田は3分の電話で引き受け、数日後、高畠、私と3人で新橋駅2階のフルーツパーラーで会った時には、最初のデモに誘うビラの文案を書いてきた。小田実の名を私があげたのは、5年前の安保反対の市民運動の中心に、若い作家の集団「若い日本の会」があって、小田実の名前がその中になかったという、単純な理由からである。