林京子
小田実全集には評論32篇、小説32篇が収められている。評論は1961年『何でも見てやろう』にはじまって、『生きる術としての哲学』2007年まで。小説は『明後日(あさつて)の手記』1951年、早熟の少年小田実17歳の処女作を頭に、『河』で終わる。『河』は2008年に未完の書として出版された。
私は『河』のページを操るたびに、2007年8月4日の、夏の陽が照りつける青山通りを思い出す。小田さんの告別式の日、昼さがりの青山通りには、嘘のない小田さんの人柄と、作品、発言、行動に心を寄せる人たちの葬列が続いた。読者も思想家も反戦の士もない、一個の人間として黙々と柩に従った。
『河』は3巻からなる長編中の長編である。
私はまだ読み終わっていない。『何でも見てやろう』の解説に井出孫六さんが、開高健さんにかかってきた電話のやりとりを書いている。〝三百枚ほどの原稿注文に対して九百枚になってしまった〟と大阪弁でまくしたてる声が、受話器を抜けて、隣室にいる井出さんにまで聞こえてくる。大声の主が小田さんで、3倍にもふくれてしまった原稿が『何でも見てやろう』だそうである。この旺盛な好奇心は、戦闘機グラマンの機銃掃射に逃げまどった明日のない世代の、悲しい通性ではなかろうか。しかし、敗戦後の闇市経済から抜けきれないでいる私たち同世代の者にとって、衝撃的な小田さんの登場だった。『河』もまた、〝声なき人〟の言葉に耳を傾けているうちに、もくもくとふくらんでいったのだろう。小説の結末を作者の言葉で読みたいと考えたこともあるが、作品にはそれぞれ運命があるようだ。『河』は、未完として生まれるべき作品だった――。
今回『明後日の手記』を読んで、小田さんは『河』の未完をよしとして、病床にペンを置いたのではないか、と私は思うのである。
『明後日の手記』の後記に「(Ⅰ)ぼくは、この小説によって或る一つの世代を描こうとした。それは、主として満洲事変当時に生れ、戦争と共に成長し、平和の到来をむしろ奇異の感情でむかえた、《奇妙》な世代である。(Ⅳ)けれども、戦争が、これら〝迷える小羊らの群〟のひとりひとりに、どのような影響を与えたか(略)この戦後の混乱の中に投げこまれたこれらの一団が、今後、どのような成長を続けるかは、それはむしろ将来の問題であろう。」と問題を未来に預けている。
『明後日の手記』は小学生(当時は国民学校)の〝ぼく〟や友人たちが時代に影響を受けながら、中学高校と、身も心も変貌していく様子が書かれ、小田さんの生涯の仕事となる種子が随所に潜んでいる。その種を丁寧に拾いあげて、各作品のなかに芽吹かせている。種子の核は〝ぼく〟たちが体験した昭和20年3月14日の、大阪大空襲である。炎に追われて逃げる足許に、〝焼き殺されてしまった〟個の見分けもつかない人たちが折り重なって死んでいる。〝人は人を殺す〟〝人を憎む〟〝そうしたくなくともせねばならない〟道理に背く行為も、戦争のなかで学んでいく。〝あの火焔の夜以来、人間は存在しなくなった〟〝非人間的な人たちの群〟に〝ぼく〟たちも陥ちていくのである。
そのなかで、もがきながら得た答えが、〝平和とは生きる権利です〟という絶対条件である。〝人間は殺してはならない〟のである。〝人間は殺されてはならない〟のである。迷える小羊たちの一団は、『HIROSHIMA』 から『ベトナムから遠く離れて』『終らない旅』へと問いかけながら、『河』という本流へ合流していく。白い人黒い人黄色い人、インデアンの少年、混血と、小羊たちの群に国境はない。彼の唯一の恋愛小説といわれる『D』の主人公、老いた脱走兵トニイのよれた姿もある。『D』とはどうにもならないD、ダメのD、etc。小田さんの弁である。恋は平等である。
私が一番好きな小説は『「アボジ」を踏む』。
小田さんが人生の同行者と呼ぶ夫人、玄順恵さんの「アボジ」の葬儀を描いた短篇で、故郷済州島の風習にそって「アボジ」は土葬にふされる。遺体に土が盛られて、肉親たちは盛りあがった土まんじゅうにあがって土を踏み固める。足の裏に「アボジ」を受け止めながら葬る哀しみのなかに、歴史を乗り越えた民族の明るさがある。チマチョゴリが海風に舞う、美しい人びとの姿が目に浮かぶ。
『明後日の手記』の最後に〝明後日になれば人間(ヒユーマニテイー)が再び誕生するのかも知れない、再び平和が、平穏が、太陽と共に輝くのかも知れない。けれど、それは結局のところ、明後日のことなのだ。現在に直接する明日ではなく〟と自殺した〝ぼく〟の友人は書き残している。
作家は処女作から離れられないといわれる。読者も同じである。小田さんの文学は、〝穏やかな太陽が輝く明後日〟に希望を求める人びとによって、読みつがれていくだろう。
あの日の葬列のように。