年譜—小田実

2000年までは著者自身の執筆によるもの。以降は『環[特集]われわれの小田実』(2007年藤原書店刊)の「年譜」を増補。

幼稚園の頃。
自宅庭で父親と。

1932年(「昭和」7年)

6月2日、大阪市福島で生まれた。福島は大阪市北部、かつてはにぎわっていた「下町」。1932年は「上海事変」の年。そして、私が生まれる日のほんの二週間ほど前には、「五・一五」事件が起こった。父は当時は大阪市の職員(のちに「政権交代」のあおりでクビ、弁護士になった)。母は商家(本屋)の娘。

1939年(「昭和」14年)7歳

大阪市立五條小学校入学。

1950年冬、高校2年生。友人と大阪港
から神戸港までちょっと遠出。

1945年(「昭和」20年)13歳

姫路市立城巽国民学校卒業。大阪府立(旧制)天王寺中学入学。この簡単な記述のなかに、「小学校」→「国民学校」への推移、「学童疎開」の実施など、「戦争」が詰まっている。中学への入学も、その前日か前々日だかに大阪は大空襲を受け、試験問題がすべて燃え上がってしまったのか、出願者全員が無試験入学。以来、私はすべての秩序はいつかは崩壊するという度しがたい信念の持ち主になった。私の戦争体験は飢えと空襲。空襲は1945年8月14日午後までつづいた。その最後の空襲はB=29爆撃機数百機による大規模なものだ。空襲後、日本が降伏したむね書いたビラを拾った。B=29機が一トン爆弾とともに投下したビラだ。私は信じなかったが、それから20時間後、翌15日正午、天皇の声は日本の降伏を告げた。この体験も私の人生、思考に今も根強く残っている。

1951年(「昭和」26年)19歳

小説『明後日の手記』(河出書房)。高校二年生の夏休みに書いた。もっと若いころから小説(らしきもの)を書いて来ていた私の努力がとにかくものになったのが、この長篇だが、できばえはともかくこの小説はそれまでのものとちがって、「小説家」になりたくて書いた小説ではなかった。ただ書きたくて、書かねばならないものとして、また、小説以外に書きようがないものとして書いた。

1952年(「昭和」27年)20歳

大阪府立(新制)夕陽丘高校卒業、東京大学教養学部入学。この記述には(旧制)から(新制)への推移と「男女共学」の実施という「戦後」が入っている。この「男女共学」は、私がいた(旧制)天王寺中学と(旧制)夕陽丘高女の生徒、教師を半数ずつ交換して、それぞれを(新制)高校にするという画期的方法によってなされた。「男女共学」は私に「民主主義」を実感させ、その実施の方法は「革命」の可能を信じさせた。

1956年(「昭和」31年)24歳

小説『わが人生の時』(河出書房)。前作にひきつづき、高校三年生のとき、私はかなり長い小説を書いたが、これは「没」。「わが人生の時」は大学に入って五年をついやして書き、本になったが、私はかえって行きづまりを感じていた。自分の思考にも書くものにも、大きく風穴をあけたい、その気持のはてにあったのが、「ひとつ、アメリカヘ行ってやろう」で始まる「何でも見てやろう」の旅だ。

1959年「何でも見てやろう」の旅。
ギリシャのパルテノン神殿にて。

1957年(「昭和」32年)25歳

東京大学文学部言語学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻修士課程入学、1958年、「フルブライト基金」を受け、ハーバード大学大学院(School of Arts and Science)留学。上のように書くともっともらしいが、アメリカ合州国に留学したのも、べつに「西洋古典学」のウンノウをきわめるためではなかった。留学後、アメリカ合州国内部、メキシコ、ヨーロッパ、中近東、アジア各地を歩いて帰ったあと書いた『何でも見てやろう』の冒頭の数行がすべてを言いあらわしている。「ひとつ、アメリカヘ行ってやろう、と私は思った。三年前の秋のことである。理由はしごく簡単であった。私はアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった。」アメリカ合州国だけではなかった。私は世界を見たかった。留学を足がかりにさらに大きな旅に出た。これが「何でも見てやろう」の旅だ。私の「西洋古典学」について少し言えば、私は大学にいるあいだ、ローマ時代のギリシア人批評家「ロンギノス」(引用符つきで書くのは、たぶん、その批評家がロンギノスでないからだ。しかし、他に名前が見つからないので、古来、そう使われて来ている)の「崇高について」を勉強し、卒業論文も書き、ずっと後年、1999年には訳と評論を「共著」のかたちで出した。1960年4月に帰国。以後、「西洋古典学」は教えたことはないが、英語、思想、文学――多岐にわたって、日本の内外で教えた。外国で本格的に教えたのは、ニューヨーク州立大学(ストーニイ・ブルック校)。1992年から94年にかけて私が考える「日本学入門」を教えた。これは、アメリカ合州国をあらためて知るいい機会になった。また、日本をもう一度勉強しなおす機会ともなった。しかし、私は本質的に作家だ、そう自分をとらえている。作家としての経歴は、何をおいても作品だ。以下、本の題名をあげ、主として小説にかかわって必要なつけたしを加える。

1961年(「昭和」36年)29歳

旅行記『何でも見てやろう』(河出書房新社)。たしかにアメリカ合州国から始まって世界大にひろがった旅は、私の思考、人生に大きく風穴をあけた。そこから風は激しく入って来て、余分なものを吹き飛ばした。私はそれを書いた。

1962年(「昭和」37年)30歳

小説『アメリカ』(河出書房新社)。風穴があいたあとで書いた最初の長篇小説。「文芸」(1962年3月号―11月号)にまず連載した。私の「アメリカ」と「日本」がそこにある。ある高名な批評家が、「これが小説なら小説観を変える」と「酷評」(のつもりだったにちがいない)したのが記憶に残っている。

1963年(「昭和」38年)31歳

評論集『日本を考える』(河出書房新社)。小説『大地と星輝く天の子』(講談社)。『大地と星輝く天の子』は、ソクラテスの裁判を主題にした「書き下ろし」長篇小説。ソクラテスが主人公ではない。彼を裁いた人たち――ふつうの市民、つまり、私自身が主人公だ。夏「何でも見てやろう」の旅を終えて帰国したあとはじめて、「外国」へ出かけている。韓国である。「それを避けて通ることはできない」を「中央公論」に発表。私の韓国行は大いに物議を醸した。ついに私は「南北」朝鮮の敵になった。

1964年(「昭和」39年)32歳

評論集『壁を破る』(中央公論社)。評論『日本の知識人』(筑摩書房)。『日本の知識人』は日本を古代ギリシアと現代インドに対比して書いた「書き下ろし」の「日本論」。

1965年4月24日「ベ平連」最初の集会。
東京清水谷公園にて、開高健らと。

1965年(「昭和」40年)33歳

評論集『戦後を拓く思想』(講談社)。小説集『泥の世界』(河出書房新社)。評論『世界カタコト辞典』(開高健と共著、文芸春秋新社)。『泥の世界』は、「泥の世界」(「文芸」1965年3月号)、「折れた剣」(「文芸」1963年12月号)、「ある登攀」(「三田文学」1957年4月号)を集めた小説集。4月、のちに「ベ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)の名で広く知られるようになるベトナム反戦運動を4月24日の東京での集会、それにつづくデモ行進から始めた。運動の思想的原点となったのは、直前に書いて発表した「難死の思想」(「展望」1965年1月号)だった。私が自然なかたちで代表になった。

1966年(「昭和」41年)34歳

評論集『平和をつくる原理』(講談社)。評論集『小田実の受験教育』(河出書房新社)。ハワード・ジンらが来て「ティーチ・イン行脚」が始まった。おそらく日米両国市民のはじめての反戦平和の共同行動だった。

1967年(「昭和」42年)35歳

評論=旅行記『義務としての旅』(岩波書店)。この本は三度の旅の記録だった。最初は、65年9月から翌年4月まで、アメリカ、ソ連、ヨーロッパ、インドを回った。二度目は、66年6月から7月、ジュネーブで開かれた会議に出席したあと、ヨーロッパを歩いた。三度目はソ連。

1968年、船をチャーターして
米原子力空母エンタープライズ号
の乗組員に反戦を訴える。

1968年(「昭和」43年)36歳

小説『現代史』(河出書房新社)。評論集『人間・ある個人的考察』(筑摩書房)。『現代史』は「書き下ろし」の長篇だが、この「ブルジョアのご令嬢のお見合い話」にとられかねない小説をデモ行進のなかでも書いていた。『人間・ある個人的考察』の評論はそのころ始めていたアメリカ合州国の脱走兵支援の運動の思想的総括。前年にイントレピッド号からの四人のアメリカ兵が脱走してきたのを皮切りに、このころ脱走兵支援の運動が始まる。脱走兵を引きとってもらうため、運んでもらうためのかけ合い、交渉のため東欧、北欧、南欧、アジアの諸都市を旅して歩いた。旅の終り、当時の「北」ベトナムへ行った。

1969年「ベ平連」の集会。
佐世保にて。

1969年(「昭和」44年)37歳

評論=旅行記『終結のなかの発端』(河出書房新社)。評論集『人間のなかの歴史』(講談社)。評論集『難死の思想』(文芸春秋)。旅行記『原点からの旅』(徳間書店)。編著『第三世界の革命』(筑摩書房)。『大逃走論』(安岡章太郎との対話、毎日新聞社)。『変革の思想を問う』(高橋和巳、真継伸彦ほかとの対話、筑摩書房)。

1970年(「昭和」45年)38歳

評論集『何を私たちは始めているのか』(三一書房)。編著『現代人間論』(筑摩書房)。『問題のなかでしゃべる』(竹内好ほかとの対話、講談社)。真継伸彦、柴田翔、高橋和巳、開高健と季刊同人誌「人間として」を発刊(1970年1号―72年12号・筑摩書房)。

1971年(「昭和」46年)39歳

『人間の原理を求めて』(森有正との対話、筑摩書房)。私はこの年、大半、病院に入院して寝ていた。

1972年(「昭和」47年)40歳

評論集『「生きつづける」ということ』(筑摩書房)。評論『世直しの倫理と論理』(岩波書店)。評論『空間と時間の旅』(河出書房新社)。翻訳エドモンド・デスノエス著『いやし難い記憶』(筑摩書房)。『世直しの倫理と論理』は、「長いものに巻かれながら巻き返す」市民の政治学、政治哲学。「書き下ろし」で、この前年、過労で入院中の地方都市の病院のベッドの上で書いた。韓国の詩人金芝河の救援活動を始めた。これはのちに金大中救援からさらには韓国民主化闘争支援に至るまで大きく幅をひろげ、長くつづく運動になった。

1973年(「昭和」48年)41歳

小説『ガ島』(講談社)。評論集『二つの「世の中」』(筑摩書房)。『対話篇』(中村真一郎との対話、人文書院)。『くらしの中の男二人』(深沢七郎との対話、現代史出版会)。『ガ島』ははじめ「群像」(1973年10月号)に一挙掲載で発表した。戦争と現代にかかわる私流の「政治小説」。「これが小説なら小説観を変える」たぐいの小説であったにちがいない。カザフスタン(当時ソビエト連邦)で開かれた「アジア・アフリカ作家会議」に出かけた。

1974年(「昭和」49年)42歳

評論『自立する市民』(朝日新聞社)。評論『「ベトナム」の影』(中央公論社)。評論『状況から』(岩波書店)。「パリ会談」でベトナム戦争はようやく終結を見せ始めた。「べ平連」は74年1月に東京で「解散集会」を開いた。私はその集会に出ていない。仲間がその会でしゃべっていた。「彼(小田)は、昨年、アルマアタで開かれたアジア・アフリカ作家会議に出たあと、ヨーロッパヘ出、そのあとカナダヘ渡り、さらに南へ下って、メキシコ、グアテマラ、そしてラテン・アメリカ諸国をめぐって、アルゼンチン、ブラジル、そしてアフリカ西海岸へ渡り、ガーナその他をまわり、キンシャサヘ出て、東海岸のタンザニアを出たわけです。」「昨日、バンコックヘ電話を入れてみましたが、まだ着いておりません。……要するに小田実氏ぬきでべ平連は解散ということになります。彼が行方不明のあいだにべ平連がなくなっちゃうというのも、いかにもべ平連らしいという気がしないでもないですが(笑)……」何んのために私が大旅行をしたのかと言えば、アジアの市民運動が集まる「アジア人会議」(同じ年に実際に東京で開催された)を私がしようとしていたからだ。「アジア人会議」をするために、何んでまたラテン・アメリカ、アフリカくんだりまで出かける必要があったのか――それは私の文学、思考がそうしたものであるからだ。

1975年(「昭和」50年)43歳

小説『冷え物』、『羽なければ』(河出書房新社)。評論『私と天皇』(筑摩書房)。評論集『「鎖国」の文学』(講談社)。小説は二つともに、まず「文芸」に書いた。「冷え物」は1969年7月号、「羽なければ」は1970年3月号。「冷え物」は「差別」問題をひき起こした。私は自分の立場を明らかにする一文を書き、出版中止の要求に対し、批判文書をつけて出版を提案、実行した。

1976年(「昭和」51年)44歳

評論『地図をつくる旅』(文芸春秋)。評論集『「殺すな」から』(筑摩書房)。「韓国問題緊急国際会議」を東京で開催。招待を受け、北京経由で「北」朝鮮へ三週間出かける。

1977年(「昭和」52年)45歳

小説集『列人列景』(講談社)。小説『円いひっぴい』(河出書房新社)。評論集『私と朝鮮』(筑摩書房)。『見る 書く 写す』(三留理男と共著、潮出版社)。『天下大乱を生きる』(司馬遼太郎との対話、潮出版社)。『列人列景』は、「花電車」(「群像」1975年12月号)、「墓と火」(同1976年3月号)、「茫」(同1976年8月号)、「ラブ・ストオリイ」(同1976年11月号)、「ケシキ調べ」(同1977年3月号)、「疑問符」(同1977年6月号)を一冊に収めた小説集。「あとがき」に書いた。「景色のなかに、人びとのつらなりというものがある」。『円いひっぴい』ははじめ「文芸」に1970年11月号―77年9月号まで連載した長篇小説。「一寸の虫にも五分の魂」があるなら、「一寸の虫にも五分の思想、観念」がある。その「一寸の虫」の「思想小説」「観念小説」。

1978年(「昭和」53年)46歳

評論『「民」の論理、「軍」の論理』(岩波書店)。評論『「共生」への原理』(筑摩書房)。エッセイ『旅は道連れ 世は情け』(角川書店)。エッセイ『人びとはみんな同行者』(青春出版社)。『「北朝鮮」の人びと』(潮出版社)。『変革の文学』(開高健ほかとの対談、旺文社文庫)

1979年頃。ギリシャの
パルテノンを20年ぶりに再訪。

1979年(「昭和」54年)47歳

小説『タコを揚げる』(筑摩書房)。評論=旅行記『世界が語りかける』(集英社)。評論集『死者にこだわる』(筑摩書房)。『タコを揚げる』はその年の「文芸展望」にも載せたが、基本的には「書き下ろし」た人生と政治にあいわたる長篇。野間宏らとともに「志」を同じくする同人が自由につくり出す雑誌を出したいと話していたのだが、それが「使者」に結実、創刊号を出せた。「国際民衆法廷」(「恒久民族民衆法廷」)の設立集会に参加し、アジア・太平洋担当の副議長になった。

1980年(「昭和」55年)48歳

評論『歴史の転換のなかで』(岩波書店)。評論集『基底にあるもの』(筑摩書房)。評論集『小説世界を歩く』(河出書房新社)。評論=旅行記『天下大乱を行く』(集英社)。ベルギーのアントワープへ出かけて「恒久民族民衆法廷」のフィリピンにかかわる第一回法廷に参加した。かつての「べ平連」の仲間らと語らって「日本はこれでいいのか 市民連合」(略称「日市連」)という市民運動をかたちづくった。

1981年(「昭和」56年)49歳

小説『HIROSHIMA』(講談社)。小説集『海冥』(講談社)。評論=旅行記『二つの戦後を旅する』(朝日新聞社)。「核」は人間ひとりひとりの問題になればなるほど、人類全体の普遍の問題になる――この認識を根にして、私は長篇の『HIROSHIMA』を三年がかりで「書き下ろし」た。『海冥』は「群像」連載の小説集。『HIROSHIMA』と『海冥』は根底でつながっている。根底は戦争と戦争に対する私の思いだ。5月、「韓国民主化支援緊急世界大会」を開く。

1982年(「昭和」57年)50歳

評論集『状況と原理』(筑摩書房)。評論『小田実の反戦読本』(第三書館)。評論=旅行記『世界を輪切りにする』(集英社)。『何でも語ろう』(安東仁兵衛ほかとの対談、話の特集)。野間宏、井上光晴、真継伸彦、篠田浩一郎との季刊同人誌「使者」が終った(1979年春号―82年冬号、小学館)。太平洋への旅に出た後、前年の「韓国民主化支援緊急世界大会」につづくかたちで国際シンポジウムを同じ仲間とともに開催した。サイゴン改めホーチミンで開かれた「アジア・アフリカ作家会議」の集会に出るためベトナムに行った。

1983年(「昭和」58年)51歳

評論『小田実の反核読本』(第三書館)。評論集『長崎にて』(筑摩書房)。東京で「イスラエルのレバノン侵略に関する国際民衆法廷」を開いた。ウズベキスタンでのタシュケントで開かれた「アジア・アフリカ作家会議」の25周年大会に出る。

1984年(「昭和」59年)52歳

小説『風河』(河出書房新社)。評論『毛沢東』(岩波書店)。評論集『状況への散歩』(日本評論社)。評論=旅行記『「ベトナム以後」を歩く』(岩波書店)。評論=旅行記『わたしの中国 わたしの太平洋』(集英社)。エッセイ『「問題」としての人生』(講談社)。3月から9月にかけて半年、私は「人生の同行者」(つれあいのことを私はそう呼ぶ)玄順恵と中国に滞在、北京に暮しの根をおいて各地を旅した。最後の一月は「北朝鮮」へ出かけた。『毛沢東』は中国滞在のなかで書き上げた。文字通り中国を歩いて書いた感じがする。『風河』は最初、「文芸」に1983年10月号から84年2月号まで連載した長篇。

1985年、ポーランドの
アウシュビッツにて。

1985年(「昭和」60年)53歳

小説『D』(中央公論社)。エッセイ集『人間みなチョボチョボや』(毎日新聞社)。『D』は最初「海」(1983年11月号)に一挙掲載の長篇。「脱走兵」の今、現在における出現―それが『D』だ。この年の夏から一年余、私は「西」ドイツ政府の文化交流基金を受けて、「人生の同行者」と「西」ベルリンで暮らした。つまり、「壁」のなかで生活した。いろんなことがあったし、いろんなことをかたちづくった。いろんなことが起こったなかに、娘が生まれたことがあれば、いろんなことをかたちづくったなかに、「日独文学者シンポジウム」を開催したことも、「日独平和フォーラム」をドイツ側の市民とともにかたちづくったこともあった。

1986年(「昭和」61年)54歳

評論『われ=われの哲学』(岩波書店)。『世直しの倫理と論理』以来の私の思想的総括。「西」ベルリンで暮らすようになってから書き始め、書き上げた。「日独文学者の出会い 過去―現在―未来」と題し、参加作家の作品の朗読会とともに日本と「西」ドイツの文学者のシンポジウムを「西」ドイツ各地で開催した。「北朝鮮」ピョンヤンで開かれた「アジア・アフリカ作家会議」とオランダのロッテルダムで開かれた「世界作家会議」に出た。一方が「あまりにも政治的(トゥ・マッチ・ポリティクス)」なら、他方は「あまりにも文学的(トゥ・マッチ・リテラチュア)」だった。

1987年(「昭和」62年)55歳

評論集『強者の平和 弱者の反戦』(日本評論社)。評論=旅行記『中国体感大観』(筑摩書房)。滞在記『ベルリン日録』(講談社)。小説『ベルリン物語』(集英社)。『ベルリン物語』は最初、「すばる」(1987年8月号)に一挙掲載。「壁」のなかの過去、現在、未来――それがこの長篇小説の主題だ。

1988年(「昭和」63年)56歳

評論『西ベルリンで見たこと 日本で考えたこと』(毎日新聞社)。『「虚業」の大阪が「虚像」の日本をつくった』(山本健治との対談、経林書房)。12月のチュニスでの「アジア・アフリカ作家会議」で、『HIROSHIMA』が「ロータス賞」を受賞した。

1989年(「昭和」64年・「平成」元年)57歳

評論集『批判と夢と参加』(筑摩書房)。評論『小田実の英語50歩100歩』(河合文化教育研究所)。1月、「昭和」天皇死去。11月、「ベルリンの壁」崩壊。6月、長く書きつづけて来た「ベトナムから遠く離れて」が大づめに近づいて来た。私はもう一度ベトナムを見ることにして、ディエンビエンフーから最南端カマウ岬まで旅した。途中、ダナンで、「天安門事件」の報道に接した。暗澹とした。

1990年(「平成」2年)58歳

エッセイ『オモニ太平記』(朝日新聞社)。私の「人生の同行者」は在日朝鮮人である。彼女の母親(オモニ)との私の「つきあい」を書いた。「つきあい」は面白く、重い。

1991年(「平成」3年)59歳

小説『ベトナムから遠く離れて』(講談社)。評論集『「難死」の思想』(岩波書店)。『ベトナムから遠く離れて』は、「群像」に1980年8月号から始まって1989年9月号まで9年間にわたって連載した長篇。「群像」での連載が終ったあとすぐ私は中上健次と対談しているが、その対談の題名を編集部は「日本文学の枠を超えて」(1989年10月号)とつけたが、『ベトナムから遠く離れて』は、できばえはともかく、その結構、規模においてたしかに「日本文学の枠を越えて」いる。

1992年(「平成」4年)60歳

小説『生きとし生けるものは』(講談社)。小説『民岩太閤記』(朝日新聞社)。評論『異者としての文学』(河合文化教育研究所)。『生きとし生けるものは』は「群像」(1990年10月号)にはじめ一挙掲載。「南海」に想像力を馳せた長篇。『民岩太閤記』は1985年4月号から1989年12月号まで「月刊社会党」に連載。この豊臣秀吉の「朝鮮侵略」を書いた長篇が韓国語に訳されたのを機に、同じように韓国語に訳された『オモニ太平記』とあわせてソウルで「出版記念会」が開かれることになり、訪韓。長年「忌避人物」として韓国政府からみなされてきた私が訪韓できたのは、それだけ「民主化」が進んだからだ。かつて獄中にあったのを私が直接間接に助けた人たちをふくめて多数が集まる大出版記念会になった。時代は変った、いや民主化を夢み、たたかって来た市民が時代を変えた。7月から9月にかけて、メルボルン大学の「研究員」となってメルボルンに赴任。10月、家族を連れ渡米、ロングアイランドに住み、ニューヨーク州立大学ストーニイ・ブルック校(SUNY)での客員教授となって教えた。1993年に家族は帰国、あとさらに一年、1994年までニューヨークに「単身赴任」で住み、教えた。10月末フランス、ストラスブールでチベット問題についての「国際民衆法廷」に出かけた。

1993年、ドイツ、ベルリンの
ブランデンブルグ門前。

1993年(「平成」5年)61歳

評論集『西宮から日本を見る 世界を見る』(話の特集)。評論『東へ西へ南へ北へ』(橋本勝との共著、第三書館)。ハワイの主権と民族自決権の回復を求める先住民カナカ・マオリ族の運動が主催する「国際民衆法廷」のためハワイまで出かけた。11月、NHK衛星第2放送で「世界・わが心の旅――ベルリン 生と死の堆積」を放映。

1994年(「平成」6年)62歳

この年には本の出版はなかった。イタリアのコモ湖畔・べラジオの「ロックフェラー・センター」に招待を受け、一ヵ月滞在。7月、「わが友アメリカと語る」がNHK衛星第2放送で放映された。北朝鮮の「核」疑惑に端を発したチマ・チョゴリ事件に対して韓国の知己たちが出した声明に応じるかたちで「日本政府並びに日本社会に対する訴え」を発表、10月末、韓国の芸術家を招いて、「『共生』を日韓市民が考える――芸術の夕べとシンポジウム」を開催した。

1995年(「平成」7年)63歳

評論『「べ平連」・回顧録でない回顧』(第三書館)。評論『「殺すな」と「共生」』(岩波書店)。評論『現代韓国事情』(加藤周一、滝沢秀樹との共著、かもがわ出版)。1月17日未明、午前5時46分、地震が私の住居のある西宮をふくめて兵庫県南部を襲った。のちに「阪神淡路大震災」の名で呼ばれるようになったこの大惨事は、私の認識、思考にあきらかにそのあとをとどめている。8月6日、イギリスの「BBC」が『HIROSHIMA』のラジオ・ドラマを「8月6日」の記念番組として放送。また、同じ8月、アメリカ合州国のバーモント州で、『HIROSHIMA』の「野外パフォーマンス」が、ジェローム・ローシェンバーグの「トレブリンカ」の詩と組み合わせたかたちで「ブレッド・エンド・パペット劇団」の手で行なわれた。私もローシェンバーグとともに参加した。

1996年(「平成」8年)64歳

小説『玄』(講談社)。評論集『激動の世界で私が考えて来たこと』(近代文芸社)。評論『被災の思想 難死の思想』(朝日新聞社)。評論『でもくらてぃあ』(筑摩書房)。『われ=われの旅』(玄順恵との対話、岩波書店)。『玄』ははじめ「群像」(1994年2月号―95年5月号)に連載した長篇。愛と性と老いとニューヨークを書いた。『でもくらてぃあ』はここ何年かかかって書いてきたが、被災の体験は新しい思想的展開をつけ加えている。他の著作にも、被災は影をおとしている。

1997年(「平成」9年)65歳

説『大阪シンフォニー』(中央公論社)。小説『XYZ』(講談社)。小説『暗潮』(河出書房新社)。エッセイ集『ゆかりある人びとは…』(春秋社)。『大阪シンフォニー』を書き始めたのは1962年。三十数年経って再出発、1994年の「中央公論文芸特集」夏季号から1995年秋季号に連載、あと三章は「書き下ろし」で完成したこの長篇で、私は「私の戦後」を書いた。『XYZ』は雑誌「ちくま」に連載(1992年1月号―94年11月号)した「市」をもとにして書きなおした未来(?)小説だが、『暗潮』は時代を逆にさかのぼって「昭和」を「書き下ろし」た長篇。これは1984年の『風河』の第二部となるもので、二つで「大阪物語」をかたちづくっている。4月「群像」(1996年10月号)に発表した短篇「『アボジ』を踏む」で川端康成文学賞を受賞した。

1998年(「平成」10年)66歳

小説『玉砕』(新潮社)。小説集『「アボジ」を踏む』(講談社)。評論集『これは「人間の国」か』(筑摩書房)。「私の戦争」を書いた長篇『玉砕』は最初「新潮」(1998年1月号)に発表した。『「アボジ」を踏む』は表題作のほかに、「『三千軍兵』の墓」(「群像」1997年10月号)、「河のほとりで」(「社会文学」―1987年創刊号)、「43号線の将軍(チヤングン)」(「文学的立場」―1980年創刊号)、「テンノウヘイカよ、走れ」(「群像」―1974年2月号)、「折れた剣」(「文芸」―1963年12月号)、「ある登攀」(「三田文学」1957年4月号)――と過去40年にわたる作品を収めた小説集。11月、アメリカ・ニューオーリンズに出かけて「国際女性フォーラム」(IWF)主催のシンポジウムに招かれて発言した。

1999年(「平成」11年)67歳

小説集『さかさ吊りの穴』(講談社)。評論・訳『崇高について』(「ロンギノス」との共著、河合文化教育研究所)。『「人間の国」へ』(デイブ・デリンジャーとの対話、藤原書店)。『都市と科学の論理』(武谷三男との対話、こぶし書房)。『さかさ吊りの穴』のもととなったのは、「世界」の通しの題名の下で、「群像」(1998年1月号―12月号)に発表した「連作」の、世界を世界の上のさかさ吊りの穴から見た短篇小説。この年のあたりで「関西」の「市民の意見30」の活動を始めた。長年の懸案だった『河』を心機一転、新しく書き始める。11月から12月初めにかけて、済州島へ出かけた。『「アボジ」を踏む』が済州島の劇団「劇団ハルラ山」によって劇化、上演されたからだ。済州島での初演のあと、釜山、ソウルと2000年になって上演はつづき、最後は2000年9月から10月初めにかけて京都、東京公演で終った。

2000年、ベトナムの
ホーチミン市にて。

2000年(「平成」12年)68歳

評論集『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』(筑摩書房)。評論=対話『私の文学―「文(ロゴス)」の対話』(新潮社)。『小田実評論撰1 60年代』(筑摩書房)。『小田実評論撰』は、10月を皮切りに以後、「4 90年代」(2002年7月)に至るまで、「2 70年代」(2001年3月)「3 80年代」(2001年7月)と刊行される。他にこれまで、私の仕事の集大成として、『小田実全仕事』(河出書房新社)全11巻が1970年から1978年にかけて刊行され、『小田実全小説』(第三書館)が未刊行作品をふくめて1992年から出版されたが、これは7巻出たところで中断している。8月、ドキュメンタリー「正義の戦争はあるのか――小田実 対論の旅」がNHK衛星第2放送で放映。春にベトナム、韓国、アメリカヘ。6月、日本は良心的軍事拒否国家を目指すべきだと、「良心的軍事拒否国家日本実現の会」をつくり、賛同を呼びかける。「朝日新聞」大阪版の「アジア紀行」連載のためベトナム、カンボジア、インド、イラン、韓国、カザフスタン、中国を旅する。後に『小田実のアジア紀行』(大月書店)として刊行。韓国ソウルの国立劇場と済州島の劇場における『「アボジ」を踏む』公演に際し、訪韓。

2001年(「平成」13年)69歳

小説『くだく うめく わらう』(新潮社)。『小田実の世直し大学』(共著、筑摩書房)。この本は、慶応大学経済学部の「現代思想」講義をまとめたもの。8月12日、同14日、良心的軍事拒否国家実現に向けた日米独市民八月交流。9月21日、代表をつとめる「良心的軍事拒否国家日本実現の会」がアメリカ合州国の「報復戦争」に反対する声明を発表。2001年度秋学期(9月から)慶応大学経済学部特別招聘教授として「現代思想」を講義。

2002年(「平成」14年)70歳

小説『深い音』(新潮社)。『市民社会と非戦の思想』(松井やよりとの共著、敬和学園大学発行)。評論『戦争か、平和か』(大月書店)。2月27日~3月5日、ホーチミン市戦争証跡博物館に日本のベトナム反戦市民運動の資料を贈る運動の仕上げとして、ベトナム訪問団(29人)の団長としてベトナムヘ。4月26日~5月2日、ベトナム解放記念日の4月30日をはさんでの招待で、第二次訪越団(19名)の団長としてベトナムを訪問。6月2日、古希祝いの祝賀会(大阪)。同月、日韓共催ワールドカップ記念日韓知識人の講演会(横浜、黄皙暎と)。同月30日、「識見交流――日本と韓国から世界を考える文化総合誌」(創刊第1号、済民日報、発売・創元社)発行。編集委員は小田のほかに、早川和男、黄皙暎、玄基栄の4人。9月11日、「良心的軍事拒否国家日本実現の会」が「二〇〇二・九・一一声明」を発表。2002年度秋学期(9月から)慶応大学経済学部特別招聘教授として「現代思想」を講義。アテネ大学哲学科で講義する。

2003年、被災者の公的支援を求める
「市民=議員立法」運動のデモ。

2003年(「平成」15年)71歳

小説『子供たちの戦争』(講談社)。評論=旅行記『小田実のアジア紀行』(大月書店)。対話と講義録『ここで跳べ』(共著、慶応義塾大学出版会)。3月19日、「良心的軍事拒否国家日本実現の会」、「小泉純一郎首相宛書簡」を発表。同会は、3月21日、「二〇〇三・三・二一声明」、4月5日、「二〇〇三・四・五声明」、6月13日、「Declaration of June 13,2003」を発表、もはや「軍靴」はいらない、と即時停戦を呼びかける。7月25日~8月1日、ベトナム平和委員会からの招待で、第三次訪越団(22名)を組織し団長としてベトナムヘ。10月4日、「良心的軍事拒否国家日本実現の会」、「〝災害・戦争″有事民権法」を発表。12月3日、「二〇〇三・一二・三声明」で訴え「あらためて平和憲法に基づいて訴える。イラク派兵をやめよ」。12月22日、「日越市民交流」設立集会(芦屋)。ニューヨーク州立大学ストーニイ・ブルック校において、「中東危機と日本の展望」について講演。韓国領南大学において、「アメリカと世界平和」の国際シンポジウムで講演。

2004年(「平成」16年)72歳

評論『随論・日本人の精神』(筑摩書房)。『手放せない記憶――私が考える場所』(小田実・鶴見俊輔、編集グループ〈SURE〉)。『戦争か、平和か』の韓国語訳が刊行される(緑色評論社)。1月17日、「阪神大震災被災地からのメッセージ」を発表。同月24日、鶴見俊輔と新春対談「この日本と世界を野放図にしゃべる」(大阪)。4月10日、「二〇〇四・四・一〇声明」で訴え「いまこそ兵を引け」。同月30日、改憲反対集会(西宮)、土井たか子との対談集会で「今こそ旬の憲法」と発言。5月24日、「二〇〇四・五・二四声明」で訴え「有事七法案を通すな」。6月10日、9人の呼びかけ人(井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子)の一人として「九条の会」の発足記者会見(東京)。9月25日、国際シンポジウム「ベトナムと日本――アジア・世界の平和構築のため私たちにできること」(大阪)にシンポジストとして参加。グエン・ティ・ビン(ベトナム社会主義共和国前副大統領)、グエン・カー・ラン(ベトナム・ホーチミン戦争証跡博物館館長)らと。10月7日~16日、「日越市民交流ホームステイの旅」のベトナム訪問団団長としてベトナムヘ。11月19日~25日、「日越市民交流」の代表としてベトナム訪日団を迎える。

2005年(「平成」17年)73歳

『天下大乱を生きる』(司馬遼太郎との対談、河出文庫)。評論集『市民の文(ロゴス)』、『西雷東騒』(岩波書店)。『ラディカルに〈平和〉を問う』(加藤周一らと共著、法律文化社)。この本は、大阪大学大学院国際公共政策研究科の「現代政策論」の講義をもとに編まれた。4月22日、「二〇〇五・四・二二声明」で訴え「伊丹の自衛隊派遣は戦争への過程そのものである」。8月14日、8・14大阪大空襲60年――「今、大阪から世界に平和を発信する」大集会(大阪)。発言者は鶴見俊輔、澤地久枝、なだいなだ、小田実。イギリスBBC放送で『玉砕』がラジオ・ドラマ化され全世界に向けて放送される。

2006年、雨の中の散歩。

2006年(「平成」18年)74歳

小説『玉砕/Gyokusai』(岩波書店)。評論集『9・11と9条』(大月書店)。小説『終らない旅』(新潮社)。講演録『憲法九条を語る――日本国憲法九条は体をはって世界平和を護っている』(小森陽一と共著、五月書房)。7月25日、「二〇〇六・七・二五声明」で訴え「小泉首相、今こそ日本の首相として」。9月11日、「九・一一と九条」(大阪)、小田実と鶴見俊輔。11月、「市民の教育政策」を発表。人生の同行者、玄順恵の本、『私の祖国は世界です』の韓国語版出版記念会のために訪韓(2月)。

2007年(「平成」19年)75歳

評論『中流の復興』(NHK出版)。講義録『生きる術としての哲学――小田実最後の講義』(岩波書店)。2月22日、前年「串団子」のように出版された『終らない旅』、『玉砕/Gyokusai』、『9・11と9条』の三冊刊行を記念する講演会(東京)で、「小さな人間の位置から」と題して講演。3月10日、九条の会講演会(静岡)。3月18日~22日、恒久民族民衆法廷のフィリピンにかかわる第二回法廷(オランダ・ハーグ)に審判員として参加。出発直前の日、急な食欲不振におそわれたが、国際民衆法廷の審判員として、責任を果たすべくオランダヘ出発。その後、小田文学の原点であるトロイの遺跡や古代ギリシアの植民都市であった、トルコのアソスやトラブゾンを旅して4月9日、帰国。受診の結果スキルス性胃ガンが発見される。5月7日、聖路加国際病院へ入院。7月30日午前2時5分、永眠。8月4日、青山葬儀所(東京)で告別式。葬儀には、葬儀委員長の鶴見俊輔をはじめ、加藤周一、ドナルド・キーン、大江健三郎、井上ひさし、林京子他、多数参加。ノーム・チョムスキー、ハワード・ジン、金大中韓国元大統領、金芝河、高銀、玄基栄、黄皙暎、その他世界各地の作家、文化人、市民たちから、心のこもった追悼文が寄せられた。葬儀後、柩を見送る参列者から拍手がわき起こり、そのまま追悼デモ行進が行われた。8月25日、山村サロン(芦屋)で「小田実さんを偲ぶ会」。2008年以降、『終らない旅』のイタリア語訳、『玉砕』のドイツ語訳の出版が決定。

2008年(「平成」20年)

6月、『「難死」の思想』が岩波現代文庫から復刊。同月、未完の遺作『河(1)』(集英社)刊行。以後、7月、『河(2)』、8月、『河(3)』が刊行。3月、ドキュメンタリー・フィルム「小田実・遺す言葉」が、追悼番組としてNHKのETV特集で放映された。

本年譜は、講談社文芸文庫『「アボジ」を踏む』(2008年8月刊)所収の年譜を再録した。そこには、この年譜の構成について次のように記されている。

「本年譜は、文芸文庫既刊『海冥』所収の自筆年譜に、『環[特集]われわれの小田実』(2007年11月 藤原書店刊)所収の「小田実年譜」(古藤晃・金井和子/構成)を増補して作成しました。2000年までは著者自身が執筆したもの、以降は『環』年譜をべースにし、全体を通して玄順恵氏の加筆と一閲を得ました」